赤也×巴
ふっと、それまで壊れかけていた精神の一部が、急速調で縫合されていった。
切原は自嘲気味の笑みを浮かべて、巴に背を向けた。
脱ぎ捨てていた衣服を素早く纏う。
「あ…の」
後方から遠慮がちの巴の声が聞こえた。
途端に後悔とも嫌悪ともつかない感情が胸の奥の方からあふれ出た。
(ヤろうと思えば、いつだってヤれたんだ。けど俺が欲しいのはそうじゃなかった!
いつだって、俺が欲しかったのは…っ!)
軽い雰囲気であのまま流してしまえばよかったのかもしれない。
こんなことは恋人同士じゃなくてもできることで、特別なことでもなんでもないのだと。
本来の切原ならば、そうできたはずだった。
けれど巴に対してはそうではない。
今まで相手にしてきたような彼女とは違う思いを、切原は巴に芽生えさせていたのだ。
しかし、先ほどの行為はそれを踏みつけてめちゃくちゃにした。
何もかもおしまいだと思った。
自己嫌悪するしかなかった。
「悪かったな。冗談にしちゃ度が過ぎてるよな。お前が望むんなら もう二度と顔見せねーよ。…そんじゃ」
バッグを肩にかけてドアノブに手をかけた。
不思議なくらいに未練はなかった。
「待ってください!」
だが、追いかける声は、切原の予想から大きくはずれたものだった。
切原は驚いたが、振り返りはせずに動きを止めた。
「なんだよ」
問い返す声は自分でも低いと思った。
「待ってくださいよ…なんなんですか、…もう」
巴の声は、最初の威勢のいい声から段々と尻つぼみになっていく。
巴は乱れた髪を必死で整えた。
今さらのはずなのに、手が勝手に動いていた。
「なにって…だから悪かったっつったでしょ。あんまり引きとめてるとまた襲っちゃうよ」
切原の声に苛立ちが伺える。
それを知って一瞬巴は怯んだが、けれどその言葉が引き金になったのか、
今まで言えなかった言葉があふれて爆発した。
巴の頭の中はパニック状態だった。
「だから、なんでそうなるんですか!こんな状態で放っていく気ですか?
デリカシーないです!
大体、なんで切原さんはいつもそう突発的なんですか!
前置きも何もないんじゃ、全然対応できません!
せめて何か言ってからにして下さい、お願いですから!」
はぁっはぁっ…と肩で息をして、巴は言い切った。
言いたいことの半分も口から出なかったが、少しだけすっきりしたような気がした。
そうすると、本当に言いたいことが自然と頭に浮かんできた。
けれどそれを言うには、切原にこちらを向いてもらわなくてはならなかった。
「じゃあなにか?ヤらせろっつったらヤらせてくれたわけかよ。
へぇ、そんなに貞操観念軽いとは知らなかったぜ。惜しいことしたな」
皮肉を織り交ぜて言い捨てた切原はやはり苛立っていた。
巴はもしかしたらさきほどのやりとりで嫌われたのかもしれないと思った。
けれど、例えそうだとしても本当に言いたいことを言えないままではいられなかった。
嫌われるならそのあとでもいい、そんな奇妙な前向きさが巴を動かしていた。
胸を片腕で隠して、巴はベッドから降りた。
まだおぼつかない足取りでゆっくりと歩いて、切原の後ろに立つ。
その瞬間、張り詰めた空気が二人の微妙な距離間に立ちはだかる。
「あの、こっち向いてくれませんか」
「頭沸いてんのか?襲うよ」
「こっちを向いてくれるならいいですよ」
それには流石に驚いて、切原は反射的に後ろを向いた。
「な、なに言い出すんだよ…」
「切原さんが何も言ってくれないからです!」
思いがけず強い光を湛えた瞳にぶつかって、切原はたじろいだ。
「なんで…普段はあたしのこと、女扱いなんか全然してくれないくせに、こういうときだけ…。ひどいですよ…」
「……悪ぃ。だからもう、お前の傍には近寄んないよーに…」
巴は切原に最後まで言わせなかった。
「違うんです!そういうことじゃないんです、切原さんに言って欲しいのは…」
「赤月…」
言いながら、巴は泣きそうになった。
さっきまで膨らんでいた勇気が途端にしぼんでいくのを感じた。
いざ口に出すとなると、試合のとき以上の精神力が必要だった。
もし違ったら、という想像が頭の中を駆け巡る。
嫌われてもかまわないとは、今はとても思えなかった。
「私が、言いたいのは」
「………」
切原は、静かに、じっと巴を見ていた。
彼女の顔は湯だるまのように赤くなって、その気持ちのほどが顕著に表わされていた。
「だから…その…」
涙を浮かべて言いよどむ彼女は、必死で、計算なんかまったく考えてもいないのに可愛らしくて、
ああやっぱ俺の選んだ女だ、と切原は改めて思った。
はっとした。
唐突に心が解放されるのを感じた。
ビリビリに破けて傷ついた心の襞が、柔らかく溶けていってやがて一つになり元通りに復元したのだ。
(欲しがって何も見えなくなってた?そうだった。俺は、こいつを好きだってだけでもう充分だったんだ)
最初から最後まで切原はその気持ち一つで巴に接していた。
それを悟ったとき、先ほどまでの後悔や自己嫌悪がきれいさっぱり吹き飛んだ。
肩の力がふっと抜けて、無性に巴を好きだと叫び出したい気持ちに駆られた。
だがどうにも勢いづくことができず、結局口より体が先に動くことになる。
そうしたときの行動も、やはり一つだった。
「赤月」
「はい?」
それまでああでもないこうでもないと口の中でぶつぶつ唱えていた巴は、反射的に上を向いた。
すると、切原の顔が間近にある。
このパターンは、と思ったが抵抗するには遅すぎた。
「んっ」
体を強張らせて身構えたが、予想していたものとは違い、それは甘いものだった。
強引さなどまったくない、震えるほど柔らかなキス。
そんなキスを切原から受けているのが信じられなかった。
「っはぁ…」
一瞬を永遠に感じるとはこういうことなのかと巴は思った。
唇が離れたときには名残惜しさすら感じた。
「好きだよ」
「…………え?」
あっさりと言われて、夢うつつだった巴の頭の中は瞬時に真っ白になった。
(それは、今、私が言おうとして、言われたいと思って…あんなに悩んでたのに…そんなあっさり…また冗談とか…。
ありうる、切原さんなら大いにありうる!けど…もしかしたら…でもっ)
色んな思考が駆け巡るが、ふと妙な感触を腰と尻辺りに感じて、 またも中断を余儀なくされる。
「…って切原さん!?なんでお尻触ってるんですか!」
気がつけばすっぽりと抱きすくめられていた。
「なんでって、そりゃ続きするために決まってんじゃん」
「続きって…」
絶句する。
本当に、破天荒で、自分勝手で、我がままで、唯我独尊で…
何故こんな男を好きになったのか、自問したくなった。
「今度はいいっしょ?」
にやり、と好色そうな、それでいて無邪気にも見える笑みを向けられたら、
巴は考えているのが馬鹿らしくなってきた。
「ほんとに、フィーリングだけしか合わせてくれませんよね 切原さんって」
悔しいので皮肉たっぷりにそう言ってやると、
「んじゃ、体の方試してみるか?」
「なっ…」
二の句も告げられずにいると、またにっこりと、無邪気な笑顔でこうのたまった。
「大丈夫、心配すんなって。試合じゃ息ぴったりじゃん、俺ら。 似たよーなもんだから」
「ちょっと…いや、全然違うと思うんですけど!?」
抵抗するが、やがて諦めた。
どうせ、この人を好きになった時点で無駄なんだから、と思い直した。
「それに、やっぱり普通逆ですよ!
なんであんなに大事なことあっさり言っちゃうんですか。
いつからですか?何も言ってくれないから嫌われちゃったかと思いましたよ」
「あのなぁ、俺はこれでもすんごくアピールしてたぞ、お前がおかしいんだよ。
普通気づくよ?
ここまでやったらさ。
つーか、ホントにテニスのことだとしか思ってないし、パートナーっての」
「おかしくないです!そんなの分かるわけないじゃないですかっ!
なんでもかんでも行動で示さないで下さいよ。言ってくれなきゃ全然分かりませんよ…」
「それがおかしいんだって」
「切原さんに言われたくな……きゃうっ!」
さらに言い返そうとした巴だったが、切原が首筋を舌でなぞったことに敏感に反応してしまう。
まるで切原の言い様にされているようで悔しかった。
さらに、
「なぁ、俺を好きだろ?巴」
とまで、確信しているように言われてしまうと、
あれほど言いたかった言葉なのに途端に絶対に言いたくない言葉に変わっていた。
ふんっとそっぽを向いて拒絶すると、くくっと笑われて頬に軽くキスされた。
「なぁ。言えよ、俺も言ったんだから」
「いやです。…意地でもいいません」
「ふーん。んじゃ、言わせてみますか」
「え?……ひあぁんっ!」
この分ではいつまでもつか分からない意地を張りながら、
巴は、家の者全員がどうか遅くなりますようにと祈ることに徹し始めた。
終わり
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