リョ桜
午後。
尽きることなく舞い散る、窓の外の桜。
この教室では、昨日までと何ら変わりない生活が営まれている。
…ただ、二人の生徒を除いては。
リョーマはぼんやりと前を向いて、授業に聞き入っていた。
いや、本当は全く頭に入ってなどいなかったのだが、少なくとも普段よりは格段に宜しい授業態度である。
背後からの視線に気が付かないフリをし、手元のシャーペンを動かす。
頭の中では、否応なしに昨日の出来事を反芻してしまっていた。
あの後。
茫然とする桜乃をその場に残し、リョーマは教室を出た。
その後彼女がどうしたのかは知らない。
ただ、今日は当然学校を欠席するものと思っていたのだが…
意外にも彼女は、普段通りに登校してきていた。
顔を合わせてしまえば、何を言われるか知れない。
リョーマは今日一日、ずっと桜乃を避けていた。
こちらから言うことなど何もない。
不思議と、後悔は無かった。
ただ、何故あんなことをしたのだろう、という自身への疑問だけが胸の内を支配している。
目を閉じると、まるで時間を巻き戻したようにはっきりと浮かんでくる、昨日の桜乃の顔。
あのときの感情は、何と呼べば良いのだろうか。
窓の外では、相も変わらず花弁が風に舞っている。
ふいに響いた終業を告げるチャイムが、リョーマを現実へと引き戻した。
+++
「…越前、何だか今日は調子が悪いみたいだね」
不二は、日差しに照らされたテニスコートを見ながら呟いた。
「だね。…風邪かにゃ?」
「花粉症かもしれないっスよ」
「いや、便秘かも!」
悪ノリを始めた菊丸と桃城を横目に、不二は苦笑しながらその場を離れた。
背後で、部長に一喝される二人の声が聞こえる。
いつもと同じ、部活動風景だ。
「…越前!」
突然声を掛けられ、リョーマは振り向いた。
微笑をたたえた不二が歩み寄ってくるのが見える。
「先輩…何スか?」
「いや、別に。…越前、今日は体調でも悪いの?」
「……んなことないっスよ」
そう?と言って首を傾げる不二。
「でも、今日はもう上がった方が良いんじゃない?」
「……」
有無を言わせない笑顔。
やる気がないのなら帰れ、といったところだろう。
「…じゃあ、そうさせてもらうっス。」
「手塚には僕から伝えておくよ」
不二がひらひらと手を振る。
リョーマはひとつ溜め息を吐き、帽子を脱いでコートを出た。
+++
…どうしてここに?
リョーマは、当然誰もいないはずの教室をちらと見回した。
傾きかけた日光が、室内をやわらかく照らす。
その窓際には、
竜崎桜乃が立っていた。
あの後リョーマは、不二と別れ、部室へと向かった。
ジャージから制服に着替え、荷物をまとめる…と、そこまでは良かったのだが、
大きなテニスバックの中には、持ち帰るべき教科書の類がごっそりと抜けていた。
リョーマは自分の過失を呪いつつ、再び教室へと足を運んだ…という訳だ。
「……」
リョーマは下を向いたまま、自分の机へと歩み寄った。
黙りこくったまま、中から必要な物を取り出し、バッグに詰め込む。
顔を上げるまでもなく、桜乃の視線が自分に注がれていることくらいはわかっていた。
…彼女はずっとここから、窓の外を眺めていたのだろうか。
バッグのジッパーを上げ、それを肩に担ぐと、リョーマは足早に出口へと向かった。
ほんの数歩が、スローモーションのように重く、長い。
ようやくドアに辿り着き、安堵感と共にそれに手を掛ける。
そのとき。
−トンッ、トン、トン…
ふいに視界に飛び込んできた、黄色。
それはリョーマの真横の壁に当たり、跳ね返って床に落ちた。
黄色い…テニスボールだ。
「…表情カタすぎ、肩開きすぎ、髪の毛長すぎ…」
ぽつりぽつりと紡がれる、桜乃の声。
いつか自分が、彼女に浴びせた言葉だ。
リョーマはゆっくりと振り返り、桜乃を見た。
俯き加減の顔からは、表情は読み取れない。
彼女の背後、窓の外には、桜の花弁がはらはらと舞っている。
やがて桜乃は顔を上げ、はっきりと言い放った。
「……逃げ腰!」
真っ直ぐにリョーマを睨む彼女の肩が、微かに震えていた。
逆光に照らされた彼女の姿は、黄色に縁取られたように浮かび上がって見える。
澱むことなくリョーマを見据えた瞳には、強い光が宿っていた。
これまでに幾度もこの場所で見てきた彼女とは、まるで違う。
…鮮やかな、変貌。
流れる沈黙が、彼女の色に染め上げられていく。
その空気に酔わされたように、リョーマはゆっくりと口を開いた。
「…でもオレ、後悔してないから。」
アンタがどう思ってるかは知らないけど。
オレは後悔してないから。
先程までの混沌とした物思いが嘘のように、すらすらと口から言葉が流れ出た。
どうしてだろう?
…彼女を前にすると、強がりすら自分には真実のように思えてくる。
リョーマは、これまでに抱いたことのない感情が、胸を沸き起こるのを感じていた。
「私は…」
桜乃は、躊躇いがちに言葉を発した。
その視線はいつの間にかまた、足元へ落ちている。
「私は、リョーマくんのことが…」
−リョーマくんのことが、好き
呟くようにそう言った瞬間、桜乃の顔がくしゃっと歪んだ。
せきを切ったように溢れ出す涙に、しゃくりあげながらそのまま床に膝を付く。
彼女の背後に隠れていた窓からは、テニスコートの全景が見渡せた。
「ねー不二ってば、おチビどうしたのさ?風邪?」
しつこくまとわりついてくる菊丸を適当にあしらいつつ、不二は手にしたボールを籠に投げ入れた。
「さぁね…でも僕はこれでも、越前を応援してるつもりだよ。」
「…??何のこと?」
「英二には分からないかもね…」
見上げた空は、抜けるように青い。
「さあ…僕らも人のことを気にする前に、練習練習。」
「何だよー、訳わっかんないの」
ぶつぶつと不平を垂れながらも、菊丸は仕方なく練習に戻る。
不二はクスクスと笑いながら、再び空を見上げた。
頭上では、青い空と舞う桜が、鮮やかなコントラストを成していた。
…まだまだ、前途多難だ。
芽生えた恋も、テニスも。
それでも繰り返すうち、少しずつでも前進できるのなら…
やってみる価値は、あるよね。
これは少年少女の、芽生えた恋と、成就した恋のお話。
すれ違いがちな二人が、ようやくスタートラインに立ったお話。
これから二人がどんな道を歩み、どんな関係を築いていくのか−−
…それはまた、別の機会に。
fin
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