リョ桜


「今日はそろそろ終わりにしようか。明日も早いからね」


「はいっ!ありがとうございました!」


「じゃ、各自部屋に戻って、…」




桜乃は隣のコートに目をやった。

秋の大会に期待のかかる男子テニス部は、まだ練習を続けているらしい。

たくさんの部員のなか、一番に目がいくのは、やっぱり――


「ああん、リョーマ様、かっこいいっ!」


熱心なリョーマファンの朋香は、目を爛々と輝かせている。

それを見た桜乃は、少しだけ胸が痛んだ。

よりにもよって、親友と同じ人を好きになってしまった。けれど、そんなこと、口が裂けても言えない。

ましてや親友を裏切って彼に告白するなんて、もってのほか。

それなら、自分の心のなかに押しとどめておけばいい。

知らん振りをしていれば、きっと忘れられる。


「ねぇねぇ、誰にも言わないって約束してくれる?」


不意に、朋香が声をひそめて桜乃の顔を覗き込んできた。


「…え、あ、何?」


突然の問いに、声が裏返ってしまった。


「実はね…」


どうしよっかなー、やっぱり言うのやめよっかなー。

朋香は楽しそうに一人ごちている。


「なあに、朋ちゃん楽しそう」


つられて桜乃もクスクス笑った。


「桜乃だけに言うんだからね、絶対内緒にしててよ?」


「うんわかった、絶対言わない」


「あのね…」


朋香がいっそう声をひそめた。


「あたし、合宿中に告っちゃおっかなって思ってるんだ!」




心臓が、これ以上ないってくらいにぎゅうっと縮まった。




「リョーマ様のこと好きな子、いっぱいいるし? うかうかしてたら誰かにとられちゃうかもしれないじゃん!


付き合えるかどうかはわからないけど、告って玉砕したほうがすっきりするっぽくない? それにさ…」


まくし立てるような朋香の声が、果たして桜乃に届いていたかどうか。

桜乃は、つとめて冷静を装った。せめてこの動揺を悟られないように。


「…そっか、頑張ってね。応援する」


「ありがとう〜桜乃! やっぱ持つべきものは親友だよね!」

桜乃は朋香に抱きつかれながら、自分の中にある淡い恋心を、必死で押しとどめていた。




青学テニス部合同合宿、4日目。

最後の練習も終わり、部員たちの間でどこからかそわそわした空気が流れ始める。

それは青学テニス部に伝わる、ある「噂」のせいでもあった。



―夏の合宿の最終日の夜、宿舎の裏庭にある大きな木の下で告白すると、恋がかなう。



誰が一番最初に言い出したのかはわからないが、毎年必ずカップルが誕生するというその噂は、今年もまことしやか
に囁かれていた。


「あー、緊張してきちゃったよぉ〜」


トイレの鏡を一生懸命覗き込みながら、朋香は、「どうしよう〜」と笑った。


「リョーマ様、来てくれるかなぁ…11時に木の下に来てくださいって手紙渡してもらったんだ」


言いながら、髪の毛を梳く手は休めない。

桜乃は鏡のなかの自分の笑顔を確認しながら言った。


「大丈夫だよ、きっと来てくれるよ。リョーマくん、あれで結構優しいところあるから…」


「そうかなー。でも桜乃が言うんだからきっと大丈夫だよね! うん、ありがと! 元気出てきた」


「よかった。頑張ってね、朋ちゃん」

なんて空虚な言葉。鏡のなかの目は笑っていない。

ああ、こんな私、嫌だな。頭、冷やしてこよう。

桜乃はいたたまれなくなって、「ちょっと散歩してくる」とトイレを後にした。




玄関先で靴を履き替えようと、しゃがみ込んだそのとき。

目の前に、緑色のつま先が見えた。

上履きの先は、えんじ・緑・青で色分けされており、緑色は2年生の学年カラーだった。

(先輩…?)

顔を上げると。

男テニの荒井とその仲間が3人、桜乃を無表情で見下ろしていた。

こわい。

桜乃は直感でそう思った。


「あの…なにか」


言うが早いか、突然口を押さえられ、両手を後ろ手に掴まれた。

何が起こったのか理解できないまま、それでも本能で逃げようと暴れもがいたが、男、しかも

集団の力には到底及ぶはずもなく。

桜乃は口を封じられたまま、体育倉庫の中へ運ばれていった。




お情け程度に敷かれたマットの上に、乱暴に投げ捨てられる。

口元と両手は紫色のタスキで縛られ、叫び声ひとつ、身動きひとつままならない。

これ以上ない恐怖にまぶたを固く閉じる。すると、誰かが汚い笑い声を出した。

「桜乃ちゃん、カワイイねぇ。これから俺たちが、大人の女にしてあげるからね〜」




「…な、なぁ」


「あん? なんだよ」


「こいつ、竜崎の孫だべ? チクられたらヤバくねぇ? 俺ら…」


「バァカ。だからイイんじゃねぇか。身内に『輪姦されてよがりました』なんて言えるワケねぇだろ」


「あー、なるほど! お前実は頭いいんだな。つーかよがるの決定なのかよ!」


一斉に笑い声が上がる。

桜乃は恐怖と羞恥で身体を震わせた。


「さぁて…どこから戴こうかな」

嫌、嫌、嫌、嫌…来ないで、お願い。こんなのひどすぎる。助けて…

(リョーマくん…!!)

現実逃避がそうさせるのか、頭の中にリョーマとのやりとりがぐるぐると駆け巡った。

(困ってるときは、いつもリョーマくんが助けてくれた。偶然かもしれないけど、でも…)

(諦めるって、決めたじゃない…)

(…嘘。諦めるなんてできないよ、リョーマくん…!)




「ねぇ。何やってんの? 先輩たち」

ああ。なんて都合のいい幻聴。




……え?




「ぅわっ、え、越前!?」


身体中をまさぐっていたものが、一斉に離れる。


「こんなところでするなんて、先輩たちあんまいい趣味してないね」


「はは、まぁまぁ、こんなとこしかなかったのさ。お前も混じりたいのか? いいぞ、一緒に…」


言葉は続かなかった。リョーマが持っていたラケットで荒井の横面を張ったのだ。


「う…うわぁぁぁ!!」


男たちは慌てて、我先にと倉庫を飛び出した。

最後に荒井が、血の流れる頬を手で押さえながら、ずるずると出ていった。




倉庫内に静寂が戻る。


「あーあ。ラケットで人を殴るなって言われてたんだけど」


いつもと同じ、無機質な口調。

でもほんの少しだけ、その声に怒りが見え隠れしていたことに、桜乃は気づかなかった。

両目を見開いて、ただただ呆然と、リョーマを見上げていた。


「隙をつくるなって、あれほど言ったのに」


今度はその言葉に、わずかな安堵が含まれていた。

リョーマは桜乃の横に立て膝をついた。タスキをほどき、スカートを上げてやる。

ふと桜乃の顔を見ると、現実を受け入れられないのか、唇が半開きのまま小刻みに震えていた。

両手も自由になったのに、起き上がらず仰向けのままだ。

桜乃の後頭部にそっと片手を差し入れ、優しく抱き起こす。すると桜乃の顔がみるみる歪み、

大きな眼からぼろぼろと涙が零れた。


「こわかった…こわかったよぅ…」


涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにして、桜乃は堰を切ったように泣き出した。リョーマは桜乃の頭を抱え込むと、

一度だけきつく抱きしめ、彼女が泣き止むまでほどけた長い髪
を梳いていた。




どれくらいの時間が経っただろう。

涙が枯れてしまった頃、ふと桜乃は我に返った。

今、自分が寄りかかっているのは、電車の中で初めて見たときからずっと、恋焦がれて叶わなかった初恋の人。

(…夢みたい…)

急に、心臓の音が大きくなる。呼吸するのも苦しくなって、動揺を悟られないよう小さく息を吐く。


「……髪」


「えっ?」


リョーマの突然の言葉に、桜乃は反射的に振り返った。

すると。

一瞬、ほんの一瞬だけ視界が止まって。

次の瞬間にはもう、リョーマの顔がこれ以上ないくらい目の前にあった。

唇には柔らかい感触。

(あ…)

(リョーマくん、まつ毛長いんだ…)

心臓の動きとは裏腹なことを考えていると、ふと目を開けたリョーマと視線が合い、桜乃はうろたえた。


「あ、あの、えっと…かっ、髪、長いよね、あは…」


ああもう、何を言ってるの!

咄嗟に意味不明なことを口走ったことに気づき、うなだれる。

リョーマは深く息を吐き出すと、桜乃の肩から滑り落ちた長い髪を手に取った。


「…そうじゃなくて」


「え…?」


「キレイだったんだな、って思った」


ぎゅう。

左胸が、掴まれたように痛む。

リョーマくん。

好き。

好き。

好き。

好きで、好きすぎて、どうしようもない。

でも―――




「リョーマくん、今…何時?」


「え? …10時、50分だけど」


リョーマが不審そうに桜乃を見やる。

桜乃はリョーマと目を合わせないようにして、身体を離した。


「ありがと。もう大丈夫だから」


「……竜崎」


「こんなとこから揃って出てくところ見られたら、まずいでしょ」


「誰にまずいの」


「誰って…その…」


間髪を入れないリョーマの応答に、桜乃は困ったように眉根を寄せる。

その様子に、リョーマはため息をついてつぶやいた。


「…あのさ。お前、俺と小坂田をくっつけたいわけ?」


桜乃は顔を上げることも、否定することもできず、ただ黙ってうつむくしかなかった。




親友の恋を応援していたつもりだった。

自分の気持ちはずっと、誰にも言わずに心にしまっておこうと決めていた。

なのに。

僅かな唇の隙間から、今にも本音を叫んでしまいそうで。

(だめ…言っちゃだめ…!)

下唇を前歯で固く閉ざす。




「…わかったよ」


あきれたような、でも抑揚のないいつものリョーマの声。

小さくため息をつくと、ラケットを拾い上げて、扉に向かう。

(…行っちゃう…!)


「待って!」

ドアノブにかけられた手が止まる。


「わたしっ、私、好きなの、リョーマくんが、好きなのっ…!」


止まらない…。


「は、初めてっ、電車で、会ったときから、ずっと、ずっと、す、すきでっ…」


抑えていた気持ちが涙になって一気に頬を滑り落ちる。


「でっ、でもっ、朋ちゃ、も、ひっ、リョ、マ、くんの、ことっ、すき、だからっ…」


「………」


「わたし、ひぐっ、おーえんするって、いっ…」


「もういいよ」

温もりが、かえってきた。

さっきよりも、ずっと強く抱きしめられる。

そして、キス。

向きをかえて、また、キス。

そっと床に横たえられる。


「…こわい?」


ふるふると小さく首を振って否定する。

その瞬間。

ふ、とリョーマが微笑んだ。

(あ…リョーマくん、笑った…)

しかしすぐに真剣な面持ちになり、桜乃の額に掌を触れる。

そのまま前髪を持ち上げると、そっと唇を落とした。

少しずらして、まぶたの上に。

涙で濡れている頬に。

そして再び、唇に。


つづく



back  /  next