リョ桜
この合宿に来て以来、越前リョーマは酷く不機嫌だった。
いや、合宿そのものは充実しており彼にしては他校の選手達とも意外とスムーズに交流している。
だが、その交流が厄介なのだ。
リョーマはこの合宿参加者の代表選手としては唯一の一年生だ。
もともと小柄なので諸先輩の中に混ざると頭二つ分程小さい。
同校の菊丸がリョーマを『おチビ』などと呼ぶせいで、他校の生徒達もやたらとリョーマを子供扱いするのだ。
擦れ違い様に頭を撫でられ、こちらが嫌がっているのを承知で『カワイイ』を連発される。
リョーマがついムッとしたり言い返したりするのがよくないのだが、はいはいと流せる程成熟していない。
何よりも……。
リョーマを不機嫌に拍車をかけているのは、その延長上なのか彼らは竜崎桜乃の事もからかうからだ。
一緒にマネージャーをやっている小坂田朋香がはきはきと積極的なのに比べて桜乃は赤面症のあがり症だ。
何か質問されるだけで真っ赤になって口篭る桜乃は他校の選手達には格好のオモチャだ。
……実の所、そうやって桜乃を構う事でリョーマの事もおちょくっているのだがそれにはリョーマは気付いていない。
「はい、どーぞ。」
今日の打ち上げの時なども、氷帝学園の忍足が彼女に酒を配る時にわざわざ一年生の方へやって来て
おっかなびっくり受け取った桜乃の長い三つ編みをつん、と引っ張った。
むっとしたリョーマが思わず忍足の目の前にずいっとコップを差し出す。
「俺にも。」
一瞬きょとん、とした忍足は意地悪くリョーマに笑って見せるとビールの缶をテーブルに置いて
桜乃の三つ編みを両手でひらひらと持ち上げた。
「怖い顔でちゅねェ。僕ゥ。」
「あ、あのっ……!」
リョーマの不機嫌に桜乃がおろおろしているのを見て、忍足は面白そうに目元を綻ばせ
「かわいいなぁ。」
と柔らかい三つ編みに唇を付けた。
桜乃には当然何が起こっているのかは分からないが挑発されたリョーマはギッと目を吊り上げる。
「どうしたの?リョーマさま。」
桜乃の隣の朋香が不思議そうに正面のリョーマを覗き込む。
「何でもない。」
「何でも。な?はい、朋香ちゃん。」
ビールを差し出した忍足に名前で呼ばれ、朋香は思わず頬を染めた。
「え?名前、どうして?」
「可愛い娘の名前はすぐ覚える。」
キザ野郎。
近辺にいた桜乃と朋香以外の全員が、心の中でウゲッと舌を出した。
――アイツは隙がありすぎなんだ。――
打ち上げの間中、リョーマはあからさまに不機嫌な態度を変えなかった。
元々マネージャー参加した女の子は三人しかおらず、
打ち上げ宴会中は三人共多数の男に囲まれる形となっていた。
橘杏と朋香はそれでも上手に彼らをあしらっていたが、桜乃は甚だ要領が悪い。
からかわれ放題、触られ放題となっている彼女に対してもリョーマの苛立ちは頂点に達していた。
――何やってんだ!――
それを声に出すのは憚れる。
しかも大勢の前で彼女を引っ張り出す訳にもいかず、リョーマは一人悶々としていたのだ。
それで、つい、まだ盛り上がっている宴会会場から彼女を置いて出てきてしまった。
――何やってんだ、は俺も同じか。――
そんな態度を取れば彼女が不安になるのも分かっていたのに、すぐに表面に出してしまう。
自分の子供っぽさが、情けなくて悔しい。
さらっと流せればカッコイイのに。
例えば、さり気なく橘杏の隣に座って彼女に近寄ろうとする男に睨みを効かせてるアノ先輩みたいに。
自分は、といえば彼女の傍に行ってからかわれるのが嫌で桜乃を遠目に見てイライラしているだけだった。
桜乃は、困惑した表情で明らかに自分に助けを求めていたのに。
恋人である自分は、苛立ちに任せて逃げ出してしまった……。
彼女が、真っ赤な顔でリョーマに告白してきたのは一ヶ月前。
随分以前から、彼女が自分の事を好きなんだろうとは気付いていた。
だからその内容については驚かなかったが、彼女が自分の口で、たった一人で告白してきた事にリョーマは驚いた。
言い方は悪いが桜乃はトイレに一人で行かないタイプだと思っていた。
流されるままで、消極的で。
菊丸流に言わせると『守ってあげたくなっちゃうタイプ?』という所だ。
実際、一人っ子で親戚も年上しかいなく、部活中でも末っ子扱いのリョーマにとって、
相手に頼りにされるのは嬉しい。
始終ビクビク、オドオドしている彼女がいつも、リョーマの応援の時にだけは大声を出して一生懸命なのも
見ていて胸がこそばゆくなる。
胸が、疼くから。
彼女の告白に、リョーマは応えた。
彼氏、彼女になった後も学校や皆の前ではリョーマのつっけんどんな態度は以前のままだが、
桜乃は文句一つ言った事がない。
だから、リョーマはやや横暴になる。
あんな風に、忍足に彼女の髪を触られた時だってむっとするのではなくて
にっこり笑って「止めてもらえます?」と言えればよかった。
今更戻り辛いし、部屋に帰って不貞寝するにも桜乃が心配だ。
――俺、カッコ悪い。――
宴会場の盛り上がる声を遠くに聞きながら、リョーマは階段に座り込み、がりがりと頭を掻いた。
「……リョーマくん?」
小さな声に呼びかけられて、リョーマは顔を上げた。
桜乃だ。
心配そうにリョーマの顔を窺っている。
リョーマはふい、とそっぽを向いた。
桜乃が、追いかけて来る事は何となく分かっていた。
だから、わざとあの部屋を出た……。
――益々、カッコ悪い……。――
リョーマは自己嫌悪に眉を顰める。
桜乃は、ただ困ったように首を傾げている。
「大丈夫?リョーマくん。」
――俺の気も知らないで。――
身勝手な怒りが込み上げて、リョーマは桜乃の顔も見ずに立ち上がった。
「俺、もう寝るから。先輩達にちやほやされて楽しんで来れば?」
突き放すようなリョーマの言い方に桜乃はびくん、と身体を震わせる。
何故リョーマが怒り出したのか、彼女にはまるで分からない。
「そんな……。」
桜乃の反論はいつも沈黙だ。
ただ、悲しそうにリョーマを見詰めるだけ。
どうして?
何で?
悲しそうな大きな瞳が、ほんの少し潤んでリョーマに問い掛ける。
――こんな顔させたい訳じゃないのに。――
その筈なのに、こんな顔をしてくれる桜乃に対して少しだけほっとする。
自分の一言が、いとも簡単に彼女を傷付ける事が出来る。
それが確認できるといつも、リョーマは自分に対する情けなさと共に、一種の安堵感を覚えるのだ。
――ああ、ガキ臭い!情けない!――
ブンブンと勢いよく頭を振ってリョーマはひょい、と桜乃に手を突き出した。
「え?」
少し身体を引いた桜乃に、リョーマは更に手を突き出した。
「……行かないの?」
リョーマの確認の言葉に、ぱっと桜乃が笑みを浮かべる。
「うん!」
泣いたカラスがもう笑った。
こんなに素直に自分の言葉に反応されると意地悪だってしたくなる。
遠慮がちにそっと乗せられた小さな手をしっかりと握り直して
リョーマは桜乃を引っ張るように薄暗い階段を昇り始めた。
さて、ドコに行こうか。
やはり、部屋に戻った方がいいだろう。
同室の桃城は橘杏を巡って他の先輩達と水面下の交戦中だから暫くは戻ってくる心配もない。
他の場所にいて誰かと鉢合わせたらまた、桜乃に冷たい態度を取って落ち込ませてしまう。
周囲に人の気配がないのを確認すると、リョーマは部屋の中へ桜乃を引き入れた。
真っ暗な部屋の中。
外から差し込む月明かりがうっすらと桜乃の細い輪郭を照らしている。
リョーマは繋いでいない手の指先で、桜乃の頬をつ、となぞった。
桜乃はうっすらと目を閉じる。
長い睫が頼りなげに震える。
繋いだ手に僅かに力が篭る。
思えばこの合宿に入ってから桜乃とまともに話しもしていなかった。
彼女は元々積極的ではないし、人前でベタベタするのを好まないリョーマの性格も知っているから、
どこにいる時でも彼女面せず自分から話し掛けては来なかった。
甘え下手だし、軽い会話も出来ないし、不器用だし、とろいし、泣き虫だ……。
でも、一生懸命で、健気な彼女。
こうして二人きりになると、心底ほっとする。
まるで日なたの花のように彼女が笑うと、ささくれ立つ気持ちがすっと消えていく。
とん、と一歩前進すると、リョーマは桜乃を抱き締めた。
「……リョーマくん?」
――ゴメン。――
そう、口にできればいいのだが、意地っ張りだし素直でもない。
だから、ただ、彼女の身体を抱き締める。
じっと抱き締められていた桜乃が、おずおずとリョーマの背中に手を廻した。
きゅっと縋りつく彼女の肩が微かに震えている気がして、リョーマは少しだけ体を離した。
……泣いている。
また、泣かせてしまった。
リョーマはぎりっと歯噛みする。
こういう自分の身勝手さと子供っぽさが彼女を苦しめているのが分かっているのに。
「ご、ごめんね、リョーマくん。」
つい、安心して、気が緩んで、涙が出てしまった。
桜乃は無理矢理笑って見せるとそう涙の訳を小さく呟いた。
桜乃の健気さがいじましい。自分の愚かさが恨めしい。
俯いて、低く唸った後、リョーマは桜乃の唇に軽く唇を押し付けた。
「ゴメン。」
小さな声。
暗がりにもはっきりと分かる程赤面した桜乃の瞳から、またぽろぽろと涙が溢れ出す。
どっちにしても泣かれてしまう訳だが、リョーマは桜乃の両手を軽く握って
今度は濡れている頬の涙を掬うようにキスをした。
右に二回。
左に、三回。
擽るような唇に、桜乃が首を竦めて微笑みを零す。
ああ、こういう顔を見ると、胸がギュッと熱くなる。
二人の視線が、ぱちんとパズルのピースがはめ込まれたように合った。
――いい?――
リョーマの視線の問いに、桜乃はこくんと頷く。
それを合図にリョーマは手を桜乃の腰に廻し、彼女の唇にもう一度口付けした。
今度はゆっくりと舌を侵入させ乱暴にならないようにそっと、痺れてしまったように動かない彼女の舌に絡めていく。
まだ慣れていないからか、桜乃は何時でも受身だ。
リョーマはそんな彼女を傷付けないように逸る衝動を何とか自制している。
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